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保育ママの足跡

保育ママの足跡 沢村キエ (葛飾区家庭福祉員の会「あおしす」より抜粋)

受託第1号と世間の目

3月上旬、葛飾福祉事務所から「認定通知書を渡しますので、来て下さい」と連絡がありました。所長さんから直接手渡しして頂いた認定書は番号が200番で、「覚えやすい番号ですね。」と我孫子さんに言われ、「あぁそうか」と今でも忘れる事はありません。私の後に江戸川区の人が2人続いていましたから、都は4回の募集で202人の家庭福祉員(保育ママ)を生みだした事になります。でも実際に働いていた人は半分くらいではなかったでしょうか。今回葛飾からは2人の応募があったけど、1人は集合住宅のため残念ながら失格になりました、という事です。
2・3か月が過ぎたころ「葛飾区の保育ママさんたちの顔合わせをしましょう。」と福祉課からの案内があって春原さんと連れ立って出かけました。春原さんは3回目の講習を受けられた方で私より1年半先輩です。四ツ木駅と私の家のちょうど中間くらいに家があって色々教えられることが多く、出かけるときはいつも一緒でした。その頃はまだ新しい住所表示もなく、東四つ木は本殿杵側長といっていました。役所に行ってみると、発足当時からの大先輩が金町に3人、新宿、柴又、水元に1人ずついらしてびっくり。係長さんのポケットマネーから出たという甘味とお茶を頂きながら、生まれたてで一番若かった私(34才)は先輩たちの話を真剣に聞いてまいりました。でもこの6人の方たちにお会いしたのはこれが最初で最後だったと思います。1人は保育室を作られたし、他の方たちもいつのまにかやめられました。
 受託児第1号は、4月1日から見えました。1歳3ヵ月の男の子で両親は即製の婦人服を縫っていました。年子で生まれたばかりの妹もいるのでもう少し大きくなったら連れてきますとのこと。妹のほうは2ヶ月遅れで6月から見えたのですが寝具持参ということだったので2組の布団を新調して持ってきました。備品として布団があったらいいなと思いました。初めての子供達なので可愛くっておんぶに抱っこ、おむつの洗濯もするといったサービス満点の私でした。その頃の保育ママさんは私だけでなく、皆そうだったみたいです。親は忙しくてあまりかまってくれないから、この兄妹はだんだん私宅の方が居心地がよくなって家へ帰るのが嫌でお迎えが見えると泣き出す始末です。
 秋になって1歳11ヶ月の男の子がきて3人になりました。小柄だったけど運動神経の発達した子で走るのも早ければ高い所に上るのもおりるのも得意で遊ぶの大好き私はハラハラの仕通しです。お母さんはアキ坊と呼んでいたので、我が家でもみんなアキ坊の愛称で呼びました。
 3人になると私も忙しくて小学校1年生の娘が学校から帰ってきてもあまりかまってやれなくなり、今まで私を独占していた娘にとっては不満の種。それがこうじてくると、私の膝に乗っていたアキ坊をひきずり下ろして、「アキ坊のお母さんじゃないのよ、私のお母さんなんだから。」と言って自分で乗ってくるのでした。「昼間だけちょっとアキ坊達に貸してね。」と言い聞かせたものですが、娘はそれで気が済んだようで、後はアキ坊達と仲良く遊んでくれました。
 さて私たち保育ママに対する世間の目はどうだったのでしょうか。「大変なお仕事ご苦労様。働くお母さんのために頑張ってください。」と言ってくれる人もいましたが、それはほんの一部の人で、大部分の人達は「子供好きで物好きな子守」としか見てくれませんでした。昔、田舎では若いお嫁さんは田畑に出て働き、お婆さんが子守をしたものです。お婆さんは暇にまかせて孫を連れて近所を、お茶のみと、他人の噂話をして歩きました。私たちもそのお婆さんと同様にしか見られなかったのです。「子守は見かけより大変だというからね。」と同情や嘲りの目で見られたりすると、腹の中が煮え繰り返るようでした。でもその場は苦笑いで済ませるしか他ありません。私たちの集まりがあるよくその話が出ました。他区も同じでした。中には近所から蔑み見の目で見られるようにたえ切れずやめた人もありました。
私は最近になって、やっとこんな目で見られなくなったので、世間がわかってくれたからと思い、後から入った人達はこんな思いはしないでよかったと思いました。しかし昔程ではないにしろ今でもこんな目で見る人達がいて嫌な思いをしたという仲間の話をきいて驚いています。
 せっかく認定されながら実働数が少なかったという事は、あまりにも厳しすぎた待遇と、この様な世間の目があったからではないでしょうか。

保育ママの会発足

 昭和38年11月23日、勤労感謝の日。東京都保育ママの会が発足しました。発起人の人たちは前からいろいろ準備して下さったので会則の原案の出来ていて当日は皆さんの承認を得るばかりになっていました。
 原案はそのまま承認されて発会。この最初の会則は残念ながら紛失して定かではありませんが確か役員選出は地区委員の中から地区委員の互選によるとあり(各区の代表者達でソフトにやればいいという考えだったのでしょうね。)役員を出した区は別に地区役員を選出する事ができるとあったように思います。
 初代の役員は発起人の人達が当たりましたし、それに初めての地区委員は各区共錚々たる人達が出ましたから何でもスムーズに行きました。けれども3年後(昭和41年度)に交代する事になりますと各区の地区委員も錚々たる人からだんだん粗々たる人?(失礼。私もその1人で初めての地区委員でした。)になって少々問題が出てきました。会長等は誰でも出来るものではなくそれだけの器量を必要とします。適任の人が沢山いても地区委員にならなければ会長になれませんから今後の事を考えると会則を改正して「役員は総会の席上に於いて会員全体の中から選出する。」とした方がよいという事になり、41年度に改正し42年度から実施されました。その頃の選挙は人の都合も聞かず、誰でも構わず投票しましたから当選しても辞退する人が多くてなかなか決まりませんでした。会費は500円位だったでしょうか。

5回目の保育ママの募集

 昭和39年の9月、都は5回目の保育ママを募集しました。物価は毎年上昇しているのに都は一向に保育料を値上げしてくれませんでしたが、これを契機に待遇改善をしてくれました。

※保育料・・・ 3歳未満・・・・・ 6,000円 時間外1時間・・ 40円
  3歳未満・・・・・ 6,000円 時間外 30分・・ 40円
  3歳以上 6歳まで・ 5,500円  時間外1時間・・ 30円
  学 童・・・・・・   時間外1時間・・ 30円

※受託時間・・午前7時から午後5時まで(1時間短縮)
※年休・・・・10日
※子供が休んでも保育料は返さない。
 葛飾からはお花茶屋の佐藤トモさんが入り、やっと3人になりました。

区への事務移管

昭和40年4月、保健所や福祉事務所等と一緒に家庭福祉員(保育ママ)も都から区へ移管されました。それまで区には部長はいなかったけど、新しく部長が誕生し、私たち家庭福祉員(保育ママ)はこの時から福祉事務所とお別れして、区役所の所属になったのだと思いますが、場所も係りも変わらなかった様に思いますので、はっきりした覚えばありません。福祉事務所長室が部長室になった事だけは覚えています。但し何部長さんだったか定かではありません。
 この年の秋だったでしょうか、区役所の招待で立石のサラトガというお店で豪華なフランス料理をフルコースでご馳走になった事があります。それが、どんな意味のご馳走になったのか、とんと忘れてしまって申し訳ないのですが、区役所からは、部長さん、課長さん、係長さん、係りの方までずらりと並び、家庭福祉員(保育ママ)は3人だけです。お花茶屋の佐藤さんが先に見えていて、春原さんと私が少し遅れて入ったら、拍手で迎えられ何とも面映ゆい思いでした。次々と料理が運ばれてきて、「こりゃ食べきれない様だな、皆さんも食べきれなかったらパンを残して、お料理を食べたほうがいいですよ。」と声をかけて頂いたのを覚えています。
それ程豪華だったのです。その後、結婚式の披露宴等で何度かフランス料理を頂きましたが、この思いがあるので、どれもこれも粗末に見えて困りました。その店を最近探してみたのですが今は無く、私自身なんだか幻のような話になって「夢じゃなかったのかな・・・」と言う思いが致します。
でも本当の話なのです。
 私たちの待遇は今まで都で一括されていましたが、今後は当然の事として各区によって異なってきます。集まれば各区の現状報告が第一でした。区独自で何か出したりした区は1.2で他は「何日に区と話し合いを待つ予定です。」とか「何もありません。」と言うのが多く各区役所でも他区の出方を見て対応しようとしているようです。でも区には当面の事として連絡手帳作りがありました。今までと同じ物を各区で作るとなるとコスト高になり当時のお金で一冊千円以上になるとの事、私たちも驚きました。
 区単位では巡回指導も講習会もできなくなり私たちはやっぱり不安です。
「それでは保育ママの会で年一回講習会を開きましょう。」という事になり皆さんは一様にほっとしました。
 今後は区とどのように話し合って保育ママを育てていくか大きな課題となりました。

婦人部から児童部へそして助成

 区に移管されて3年もたつと各区の格差がだんだん大きく広がってきました。良い区は得意げですが、いつもワースト5に入っているような区は焦るばかりです。保育ママの会では「格差是正」を目標に掲げて都に掛け合って下さいますが「それは各家庭の事情と同じようなもの。あなたの家は食費が多すぎるから少なくしなさいとか、交際費が少ないからもっと使いなさい、とか言えないのと同じ事です。区に移管したのだから皆さんは区にお願いしなさい」と言われればその通りで、それなら公費の補助をと申しでると「働く婦人に補助は出せません」そこで昭和43年9月保育ママの会は所属部門の変更と公費の補助を都に要請しました。時の知事は美濃部さん、何でもよく補助を出して下さった方で私たちの要請も受け入れられて、翌年4月より民生局婦人部福祉課から民生局児童部保育課の管轄になりました。秋頃には助成金も頂けるようになり、4月にさかのぼって児童一人当たり1,500円を区を通して支給されました。嬉しかったですね。
社協からの歳末見舞金をこの頃からだったでしょうか。いつからだったか忘れてしまいましたが最初は2,000円からでした。初めて頂いた時は歳末助け合いの中からと聞いて嬉しい半面私たちよりもっと困っている人達に回してあげればいいのにね、と話し合ったり複雑な気持ちでした。